こんにちは。黒田です。
本日は。
長〜い、タイトル。
仕立屋三代目、テーラー佐藤英明の
「知りたい。聴きたい。」生きてるうちに。
ペコラ銀座20周年を迎えたこともあり、
昨今のこんな状況もあり、
仕立屋として生まれてかれこれ半世紀なこともあり。
ペコラ銀座店主、テーラー佐藤英明は
「まだまだ知りたい、まだまだ聴きたい」
と言う自らの心の願いを、
少しずつ叶えていこうと動いております。
そんな佐藤英明の動きにまつわる小話を、
時折、こちらに記して参りたいと思います。
・・・
今日はいつもお世話になっている
生地屋のお爺ちゃんに
色んな話を聞かせてもらった中で
佐藤英明が感じたこと、考えたこと。
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生涯現役とは、このお方。
生地屋の生き字引、生地屋のお爺ちゃんに佐藤英明は尋ねた。
「戦後間もない頃の日本での洋服の先生って、どんな人がいましたか?」
生き字引は答える。
「そうだな。関根先生、佃先生、小宮山先生に、遠藤先生。それから見上先生もいたな。」
〜
教えてもらった名前の中で、
佐藤英明の聞いたことのある先生もいれば、
初めて知る名前の先生もいた。
そんな中で、
ある先生の名前が、
佐藤英明の若き頃の記憶を蘇らせた。
関根先生。
関根先生とは、
佐藤英明の父親がとても尊敬していた先生の一人。
「父親はいつも関根先生の事を誉めててね」
「子供の頃から、よく関根先生の事を聞かされていた」
と、佐藤英明は振り返る。
「親父がまだ若い頃、神田で見習修行をしていた。そこの見習先の主人と仲が良かったのが、関根先生なの。時々、関根先生のところへ使わされた親父は、関根先生に沢山の話を聞いてたんだって。関根先生は、とにかく、ものすごく針づかいが上手だったって。ボタンホールを一回やって見せてもらった時は本当に素晴らしかったって、親父がいつも言っていた。それから、『職人でも、ちゃんとしたところで食事をしたり、日頃の生活にも気を付けること』ってすごく厳しく言う先生だったみたい。職人って当時は、贅沢も出来ないから、やっぱり大衆食堂とかにも行きたいわけじゃない、でも関根先生の教えは、例え職人だったとしても日頃どこに出入りして、どこで食事をとるかも、ちゃんとした方が良いって言うの、それが仕事にもあらわれるって。」
父親の言葉を、思い返しながら、佐藤英明は続けた。
「それからね、生地を5枚置いて、針先だけで、1枚、2枚、3枚、4枚、5枚ってすくって縫えてて、『こうじゃなきゃダメなんだよ〜』って親父が関根先生に教えてもらったんだって。僕もね、イタリアで見た職人は、みんな、これが出来てた。イタリアの職人は針先の感覚だけで、生地をすくい分けられるの、それが普通なんだ。」
こう言いながら、テーラー佐藤英明は
針先だけで生地を1枚、2枚、3枚、4枚、5枚と、すくいあげる事を実際に見せてくれた。見事に、針を持つ指先だけで生地を器用にすくって見せ、続けてこう話した。
「日本に帰ってきて、それが出来てる職人をあまり見かけないんだ。そう思うと、親父の若い頃にお爺ちゃんでベテランだった関根先生の時代、つまりもうそれこそ100年とか前か?は、ちゃんとそう言う細かい職人技もヨーロッパ並みのものを追求していたと言うことになるよね。その意味で、やっぱり昔の事をちゃんと知っていくこと、今やっている100年前の裁断書研究とか復刻は、失われてきた考え方とか、技術とか、色んな意味ですごくたくさんの発見と気づきがある。」
生地を針を持つ指先の感覚だけですくう。その技術は、縫い方・縫い目そのものの質、服地への影響など、美しい洋服づくりにおける大切な要素を「確かなものとする」ことへと直結する。その事を、テーラー佐藤英明は幼少期からの父親の言葉、フランスでの学生時代、ミラノでの修行時代を通じて感じ、今もなお考え続けている。
・・・
ペコラ銀座20周年、
昨今の状況、
佐藤英明の仕立屋人生の半世紀越え、
何かと節目を感じる今日この頃に、
まだまだ知りたい
まだまだ聴きたい
そんな思いを胸に動いております、
ペコラ銀座店主、佐藤英明。
彼の年代のテーラーは少なく、
ベテランと若手の中間におり、
尚且つ仕立屋三代目である彼は、
仕立て文化の繁栄を担う、一仕立屋として
もっと知り、もっと聴き、
もっと考え、
そして未来に伝え、残したい。
その願いのために、
佐藤英明、
少しずつ動いております。