こんにちは。黒田です。
ペコラ銀座お洋服研究日記。
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〜どこからの。いつからの。〜
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序文に取り憑かれた狂気から脱却して、順調に読み進めている。リラックスした気持ちで本を読む時間は、やっぱり良い。
決めつけ視線を取り払って読む文字から入ってくる情報に、現在の自分の価値観を問いただされているような気持ちになる。
今当たり前に思ったり感じている、洋服にまつわる色んな事柄と価値観。それってそもそもどこから来たのか。
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今読んでいる「階級と服装」の本は主に時代的に18世紀以降の事について書かれている。それから地域は主に英国、(時折歴史的な背景を示すのにヨーロッパも出てくるけれど、)。生地と衣服、それらを纏う人の装いがその人の階級を見なす手がかりであった事。同時に、服装と言う文化そのものが階級という概念の形成発展の一助になった事。更に、服装と階級が関係性を持った事によって、洋服を纏うことが身分を隠す手段にもなった可能性について書かれている。
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余談だけれど、とっても大切だと感じていて心にとどめていることがある。ペコラ銀座店主、佐藤英明は、彼の父親の「洋のものは洋で学べ」と言う教えに習い、10代のうちに早々とヨーロッパに渡り洋服づくりを学んだ。今でこそヨーロッパでのテーラー修行は珍しくなくなってきているけれど、25年前の当時は日本のテーラー業界においてそんな人はいなかった。その分、イタリア修行を終えて帰国したばかりの佐藤英明が直面したのは「欧州的な洋服づくりが理解されない日本の環境」だった。それでも、孤独にひたすらに自分の信じる「洋服づくり」を貫いてきた中での今現在があり、ペコラ銀座の洋服づくりがある。
今でも佐藤英明がよく口にする「日本での洋服の歴史って、実は意外と短いんだよね。まだまだ知らなきゃいけないことが沢山ある」と言う言葉。これって実は物凄く大切な認識であり、姿勢であり、わたしはとても尊敬している。この洋服研究日記を始めるにあたり、読む書物を洋書中心にした事も、その影響がある。
もう一つ、小話。佐藤家は代々続く、テーラーの家系。佐藤英明の父親は、テーラーという職、そして洋服を作る事をとても誇りに思っていた。佐藤英明の父親が営んでいたお店の壁には明治天皇の洋服を奨励する言葉を額縁に入れて飾ってあり、その額縁を眺めながら「ほら英明、日本人には洋服なんだ。自信持って洋服を作るんだ。」と、若かりし佐藤英明にいつも父親は言っていたそうだ。親子代々、洋服に対して抱く高い誇りと崇高な探求心に、わたしは心からの敬意の念を抱く。
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さて「服装と階級」。
さきほどの余談にも通じるけれど、「どこから」そして「いつから」と言う事。そしてその先にあるのは「これからどうしていきたいか」。それらを今すごく考えさせられている。
例えば、今では当たり前の毎年の流行。そう言えば毎年シーズンごとに「今年の」新作生地や、「今年の」流行スタイルというものが当然の様に発表されたり浮上したりする。でもそれって、どこから?いつから? 普段は意識しない事に、思考を巡らせてくれる洋書研究。とっても面白い。
今読んでいる本には、フランスのリヨンで作られる絹織物に関するある変化について記されている。
もともと、リヨンの絹織物を作るのにはとても手間がかかり、最高級品として認知される富裕層向けの織物だった。そのリヨンで生産される高級絹織物に1660年代から1670年代にかけて制定されたのは、「デザインの一年ごとの入れ替わり」。どう言う事かと言うと、パターンや色味を「一年単位」で新しく展開していく事としたのだ。
それまでは存在しなかった、織物の生産における「かつて無い速さの‘入れ替わり’」をシステムとして推進し、その‘入れ替わり’に「一年ごと」と言う単位を設けたのである。
その最高級品に「年単位のシステム」を当てはめる事によって、論理性をもった上での、デザイン、マーケティング、製造を可能とした。そして何よりも「今年の新作デザイン」と言う‘栄誉’をその織物に与えた。
そもそも、富裕層向けであった、大変に評判高く、最高級と言われた絹織物に、「更なる‘栄誉’」を与えなければならなかったのは何故か。それは、富裕層が富裕層たることを、外見的に表現する事の重要性が洋服の形やスタイルだけでなく、織物と言う洋服地そのものにも求められ始めたからではないか。富裕層が富裕層たることを示すために、富裕層の纏う洋服地には、手間がかかり高級な品であると言うそもそもの根本的な希少価値に加え、更なる付加価値の上乗せが求められていた。新作織物を一年サイクルで生産すると言う制定があった事実には、そのような状況が投影されているのではないだろうか。
リヨンの絹織物の生産において先に述べた「今年の新作」と言う1年サイクルのシステムが制定された時期と同じくして、ルイ14世の宮廷における‘装いの変革’があった。それに伴い、毎年の王室ワードローブ一新のために、宮廷にはリヨンの最高級絹織物「新作デザイン」が納められ、宮廷の‘古くなった’昨年分の生地や衣類は全て処分されるのであった。
絹織物のデザインを1年ごとに入れ替えるシステムの制定に加え、王室御用達の高級織物の生産地となったリヨンと言う地は、当時のファッションにおけるリーダーシップの発揮と存在感をより一層強固なものとしたそうだ。
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このリヨンの絹織物について読みながら、わたしは思った。
わたしは深く考えもせず、当然のようにシーズンごとの新作生地をSNSなどで紹介していた。今年の新作、春夏、秋冬。あまりにも当然すぎた。
でも、これが当然となるまでの歴史が存在するのだ。何事もそうなのだけれど、「今」に飲み込まれ、全く気づこうとしていなかった。私の認識はあらゆる側面において「知らない事、気づいてない事だらけ」なんだろうなと、本を読みながら感じている。だからこそ、この終わりのない洋服勉強の旅はずっとずっと続けていこうと思う。
それから疑問や想像も膨らんでくる。
「一年で‘入れ替える’」と言うサイクルの制定、そして「今年の新作」というものに望まれた栄誉、付加価値、その背景に存在する人のあらゆる顕示欲。そのサイクルとか、栄誉とか、顕示欲が混在し膨らみ、加速したのが現代なのかな。
じゃあこんな現代において、何を選んで、どうしていきたいか。
今、当たり前と思っている事には、必ず歴史がある。ちょっと考えれば当たり前なんだけれど。でもちゃんと目を向けたり、考えたりする時間をとっていただろうか。
そういえばペコラ銀座店主はいつも言っている「洋服づくりの中の当たり前の工程ひとつひとつ、その全てに意味があるんだ。それを一々、自分でしっかり考えなくちゃいけないんだ。」と。
洋服。洋服づくり。それらにも当然歴史と積み重ねがある。なぜ、それが存在しているのか。どうしてか。どこからか。いつからか。
まだまだ知らなきゃならない。
もっともっと考えなきゃならない。
洋服。
洋服づくり。
ペコラ銀座の洋服。
ペコラ銀座の洋服づくり。
Memo…「今」を考えるときは「今まで」をちゃんと感じる事。