見ること。

こんにちは。黒田です。
 
 
 
 
 
 
 
 
「とにかく良く見る事」
 
 
 
 
 
 
 
佐藤英明がミラノで修行していた頃に、
マリオ・ペコラ氏がいつも言っていた言葉。
 
 
 
 
 
 
その言葉を、今、
あらためて心に刻む、佐藤英明。
 
 
 
 
 
 
 
「この機会に、僕は自分を見つめ直したい。」
 
「ペコラさんの仕事で見てきた事を思い出していきたい。」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ペコラ氏は、若き佐藤英明に、
 
「とにかく良く見るんだ」
 
と、説いたという。
 
 
 
 
仕事の内容をちゃんと見る事。
 
仕事の姿勢をしっかり見る事。
 
 
 
そして何よりも、
 
 
 
服を、よく見る事。
 
 
 
 
街の人たちが着ている服、
 
お店に並ぶ服、
 
今の服、
 
昔の服、
 
 
そして、自分が仕立てたその服を。
 
 
 
 
 
 
「みんな見てるようで、見てない。よく見ろ。」
 
ペコラ氏は口すっぱく言い続けた。
 
 
 
 
・・・
 
そんな中で佐藤英明は気がついた。
 
 
 
 
自分で見て、
 
見て、自分で感じて、
 
見て、自分で発見しないと学べない。
 
 
 
・・・
 
 
 
「五十嵐九十九先生にもよく言われた」
 
 
「良い仕事、良い服、良いものを見なさい。って」
 
「そうじゃないと、良いものは作れない。」
 
「そうやって言われた。」
 
 
 
そう振り返る、佐藤英明。
 
 
 
 
 
「この機会に、僕はいまいちど、見つめ直す。」
 
「自分の仕事。自分の作る洋服。」
 
「しっかりと見る。」
 
 
 
 
27歳で独立し、
孤高のテーラーの道を歩み続けた、
 
ペコラ銀座店主、佐藤英明。
 
これまで、いくつもの転機を乗り越えてきた中で、
 
いつも
その時にしか見えない発見をしてきた。
 
 
 
 
 
ペコラ銀座20周年を迎えるこの年。
 
描いていた、周年とは一味違う。
 
 
それでも、
 
ここには必ず新たな発見があるはず。
 
 
 
 
 
 
 
 
「ペコラさんはね、良く、映画も見たらいいよって言ってた。」
 
「特に古典映画は良い服見れるって。」
 
By Hideaki Sato
 
 
 
 

 

 

最後にこちら

昨日で一旦のファイナルを迎えました

旧スタッフ渾身の映画ご紹介シリーズ♪

ペコラ銀座おすすめの、こんな時に観る映画

ボリュームある豪華盤。

是非ともお楽しみください。

 

 

映画のお話その6

ファイナルです。長々お付き合いいただいてありがとうございました。

締めくくりは、

フランス映画万歳!

Paris vu par… パリところどころ

DIVA

SUBWAY

Pédale douce ペダル・ドゥース


Dans la maison 危険なプロット

Potiche しあわせの雨傘

8 femmes 8人の女たち


36 Quai des Orfèvres あるいは裏切りという名の犬

Ceux Qui M’Aiment Prendront le Train 愛する者よ列車に乗れ日本語字幕版はVHS(!)

サウンドトラックも良いです。

Juste la fin du monde たかが世界の終わり


L’Auberge Espagnole スパニッシュアパートメント

Les Poupées russes ロシアンドールズ

Casse-tête chinois ニューヨークの巴里夫(パリジャン)

Chacun cherche son chat 猫が行方不明

RIENS DU TOUT 百貨店大百科

セドリック・クラピッシュ監督のCe qui nous lie おかえり、ブルゴーニュへ

劇場で見逃したのですが、

ブルゴーニュ地方の風景が美しい、ワインを作る家族の物語。

嗚呼、フランス、行きたいですね…

2月末公開のLes Misérables  レ・ミゼラブル

鑑賞自粛したのですが、今のフランスを映した、見応えのある映画と思われます。

まだまだストレスフルな自粛生活が続きますが、心の中で旅に出ましょう!

みなさま、どうぞご自愛くださいませ。

早とちりに顕る本心かな。

こんにちは。黒田です。

 
 
 
 
 
 
 
ペコラ銀座お洋服研究日記。
 
<page.1>
 
〜早とちりに顕る本心かな〜
 
 
 
・・・
 
 
このところの興味、‘知りたい’を満たすために読みはじめた複数の本。書物を読み始めたばかりの時期にひときわ味わい深いと感じるのは本の序文、Introduction。まさに読みはじめの今はそれらが非常に面白い。
 
そこには筆者の考え、試みや意図、その本を読み進める上での大前提が示され、筆者の言葉選びや言葉の解釈について説明がある。さらには様々な引用文に付随する参考文献が記される。
 
本の導入部分でありながら、そこではその本のその先の、更なる学びの手がかりを見つける事が出来る。
 
本題に入る前から、溢れんばかりの情報、学び、そして気づきがある。とにかく今舞い上がっている状態。
 
そんな舞い上がる中での「早とちり」のことを、今日は記したい。
 
 
・・・
 
 
 
ある本の序文の出だしのフレーズに取り憑かれてしまった。
 
“An end of Apparel is the distinguishing or differencing of persons”
Richard Allestree The Whole Duty of Man
 
 
この本は「服装と階級」について書かれている本で、このところ知りたいと思っている洋服に関する事柄である。先のフレーズは、本の序文の出だしにサブタイトル的に用いられていた引用文。この引用文にとてつもない魅力を感じた。
 
予期せぬことに、「服装と階級」について読み始めるはずが序文の一行目にしてこの引用文に取り憑かれてしまった。Richard Allestreeと言う人物、The Whole Duty of Manと言う本、そしてこのフレーズが気になってしょうがなくなった。
 
手に持っている本を読み進められなくなった。まだ1行しか読んでいないのに。気になると同時に期待が膨み心臓がドキドキする「どうか、このフレーズが、わたしの解釈通りの意味を持ちますように」と。
 
序文一行目にして、「服装と階級」の本を読むことを中断し、Richard Allestree氏のThe Whole Duty of Manを購入した。どうしても知りたい、フレーズの意図。ページをめくり、探すはあのフレーズ。
 
 
・・・
 
と、ここらで記しておくべきだろうか。そのフレーズに対して期待する意味と解釈のこと。
 
仕立屋さんの仕事を誇りに感じる者として、常に考える‘人にとっての洋服とは何か’。仕立屋さんは、注文を受けた人のために洋服を一から仕立てる。注文をする人は、洋服における自分の要求を伝える。注文者の要求に、仕立屋さんは技術と対話をもってして応える。そうして出来上がるのは、この世に一つの、「その人の洋服」。その洋服は、どこの店舗にも吊るされていないし、販売されていない。誰に必要とされるかどうかも定かでないまま生産されたものではない。その洋服は、その人のために、その人が故に、この世に誕生した。その洋服には、その人のこだわりと嗜好が詰まっている。他者の目に見えるこだわりも、見えないこだわりも、たくさん詰まっている。その服は、その人にとても合っている。身体にも、雰囲気にも合っている。その人のために一から引かれた型紙をもとに、その人が選んだ生地が手裁断され、仮縫い試着補正を繰り返し、職人の手作業で仕立てたその服の持つ美しい線はその人にとても似合っている。他者がその洋服を着たとしても、その人が着るように似合うことは決してないだろう。何故ならばそれは、「その人によって、その人のために誕生した洋服」だから。
 
このような想いを日頃より抱いている前提で
先ほどのフレーズに対して抱いた期待を和訳すると
 
「アパレルの終焉が人の識別や個性をもたらさん」
 
この期待を解説すると、アパレルと言う言葉を「‘大量’の高速サイクルに支配されるアパレル」と理解したうえで「アパレルの終焉が洋服における個性の始まりとなる。」と言う意味を持つフレーズであることを期待した。
 
 
 
ここで先にこの日記の結末の一部を書くと、この解釈も期待も、まったくの早とちりであった。
 
・・・
 
 
Richard Allestree氏は17世紀時代の英国イートン・カレッジの校長の一人で、彼の著書The Whole Duty of Manの中の、アパレルが持つ様々な側面について書いている章の中に、そのフレーズは出てくる。(この章はこの章で改めて読み解き記す)そしてそこでのフレーズの意味は極めてシンプルである。
 
“An end of Apparel is the distinguishing or differencing of persons”
「アパレル(衣料)の持つ側面の一つとして、人の差異識別がある」
 
 
実際の本の中でそのフレーズの前後の文章を読み、瞬時に自分の解釈が早とちりであった事、そして過剰なまでに抱いた願望の押し付けであった事に気がつき、恥ずかしくなった。フレーズの追求でドキドキしていた心臓は、心拍が飛んだような感じがしてから少しずつおさまった。冷静さを取り戻し、再度「服装と階級」の本を手に取った。そして序文1行目のフレーズを再び見つめた。
 
冷静に読み返した。当然ではないか、「服装と階級」の本なのだから、distinguishing, differencingには階級を意識した‘違い’のニュアンスが含まれていて当然だ。その上“An end of”と来たら、TheじゃなくAndだし、toじゃなくてofだし、endとは「終焉」ではなく「側面」が妥当であることは簡単に読み取れたものだ。。やれ。全く。ちゃんと文章を読まずして、ただひたすら自分の読みたいような文に妄想変幻させて読んだだけである。恥ずかしいったら情けないったら。大丈夫か、わたし。
 
しかもそう言えば、この「服装と階級」の本はまだ1行目しか読んでいない。あれほどまでに心臓をドキドキさせながら、取り憑かれたような数時間は過ぎたけれど、「服装と階級」の本は、まだ1行しか読んでいない。恥ずかしさがぶり返す中、読み進める。まだ序文。
 
序文で筆者が様々な引用文を導入しながら自身のこの本における意図を表現しようとする様子を読み取っていくうちに、なんだか先ほどまでの自分の行動も腑に落ちだした。
 
早とちりどころか、文章を自分が読みたいように読んでしまっただけと言う呆れた始末だったが、このことによって本心が顕となった。洋服の学びを深めたい背景に持つ意識。学びによって裏付けたい願望。
 
学ぶ事には、自覚も必要。そう思うと、この研究日記のはじまりとしては、なかなかのスタートをきれたのかもしれない。
 
洋服とは一体何なのか。ペコラ銀座の考える洋服たるもの。その探求と裏付けを願って、様々な書物を読み進めたいと思う。
 
 
それにしても、たったの1行にして費やしたこの時間数。なんだか先が思いやられる。
 
 
ともあれ。ひとまずは。
 
終わりのない、結末もない、研究日記のはじまりはじまり、と。

 

 

Memo…以後、願望過多には気をつけること。迷走してしまう。